昭和五十年十月二十六日 御理解 第六十九節「信心は容易いものじゃが皆氏子から難しうする三年五年の信心ではまだ迷い易い、十年信心が続いたら我ながら喜んで我が心をまつれ、日は年月の始めじゃに依ってその日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが、信心は容易うするがよいぞ」
信心が容易いのではなくて容易うならなければならんのです、例えば信心は難しいけれどもその難しい信心が、体得出来てしまえば容易いのです、だから信心はああ難しいもんだと、言うところもやっぱり通らせてもらわねばならん、そしてそれが出来る様になる、出来る様になったら難しい事じゃない、まあ楽しいものであり愈々楽しいものであると言う事です、そのころには我ながらようもこんなに自分の心の飛躍と言うか、それこそ自分の心を奉らせて頂きたい程しのが段々と育って来るのです、勿論おかげか育って行く事が勿論です、そう言う信心が本当なものになって行く、難しい信心が難しうなる楽しうなる、有難くなる、そこにはおかげが、いやと言うても伴って来ると言うので御座います。
昨日は二十五日の研修会でした五六人の方達が発表されましたが、私は本当に感心しました、昨日の朝の御理解にも、神は屑の子程可愛いと、無信心者程可愛いと、自分の子供の中に屑の子があれば、その屑の子が可愛いのが親の心である様に、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言う、その御理解に基付いての事で御座いましたね、それは信心が堂々まわりをしておる、一つも進んでいない信心が堂々まわりをしておる、その堂々まわりをしておる信心を、私は昨日は屑の子だと言う風に説かせて頂きました。
這えば立て立てば歩めと言うのが親心である、まあおかげを頂いて這い、這いはできるようになった、ところがいつまで経っても立たん一年経っても二年経っても、勿論歩きは出来んそれこそ一生親の思いがねであろう、そう言う事であればある程親の不憫の情は募るであろう、そう言う意味で屑の子であって屑の子であってはならん、ね、親の心に添うて行き、這えば立ち習い立てば歩きならわして貰う、それも何かの手がかりがあって、立ち上がるでも何かにつかまえて立つ、一人歩き出来るためには物につかまって歩きまわる稽古をする様、手がかりはあるのにもかかわらず、一人歩こうともしなければ立ち上がろうともしない、それはもう本当に親の心子知らずと言うか、親の思いに全然添おうとしていない。
それでおかげは頂いておるけれども堂々まわりである、同じ来る年も来る年もやはりどうぞ金銭のお繰り合わせお願いします、ああおかげ頂いたああ神様は間違いないと言う様な事じゃなくて、何年前までは金銭のお繰り合わせ願いよったがもう何年信心頂く様になったら、もう金の事だけ位はそう慌てんで済む様になったと言う様にです、おかげの方も向上して行かねばいけんです、信心が向上しないからおかげが向上しない、それで本気で一つおお私の信心は堂々まわりだとまず悟らして貰って、その堂々まわりの域から脱しなければいけない、と言うのが昨日の御理解でしたよね。
私は昨日朝そう言う御理解頂きましてからの。昨日の研修会でしたから私はもう本当に、皆さんの一人一人の話しを聞かせて頂いて感心しました、信心が難しいものであると、いつまでも難しいものであると言う様な、であるならばです、あなたの信心はやっぱり堂々まわりをしておるといわなければならんのです。
もうこの事ばどうでんこうでんおかげば頂かんならんから、一生懸命参りよると言う間はあんたの信心は堂々まわりです、おかげを頂くとまた信心が緩んでしまいます、だからそう言うおかげを頂く都度にです、おかげを頂いてゆかねばいけません、所謂信心が進んで行かねばなりません。這い出したら立ち習い、立ち習ったら歩き習いそして親の手伝いの一つも出来る様、に育って行ってこそ神様の喜びであるり、同時に信心が楽しみなのです、信心は難しいもの私は難しいと思う、難しいから特に金光様の信心は難しいと思う、中でも特に合楽の信心は難しいと思う、他所から来た方達がよく言います、合楽の信心は難しいと、容易う容易う説いて、噛んで含める様に説いてくださるけれども、その実際の信心と言うものは特に難しい、ね、難しいからこそ楽しさも有難さも倍かするわけです。簡単に出来るものだったらそんなに妙味やら味わいやらあるもんじゃありません。難しい例えば稽古に取り組ませて頂いてそれが出来る様になるから愈々楽しくなるのです。
だから取り組んで信心が上達して行かなかったら、本当に合楽の信心は難しい私どんじゃでけん、と言うて止めるより他に仕方ないのです、けれども本当に信心の稽古をしよう、本気で求めているものが与えられる歓び、求めているものが与えられる楽しさと言うものがです、身についてこなければね。 ─────────────────────────────
昨日熊谷さんの本なこっちゃあるじゃろかと言う心境、それは実際熊谷さんの信心を知っておらなければ嘘じゃないじゃろかと言う様な、お話をなさっとられました、素晴らしいもう皆さん本当に素晴らしい話しをなさいました、話しだけではないそれは実際に、その方達の信心を皆知っておるから、毎日目の辺りに見たり聞いたり知っておるから、素晴らしいところばかりを通りよんなさったねと言う中に、熊谷さんが後で言うとられましたが 一番初めに合楽に御神縁を頂いて、只、家、何十年間続いておる、裁判問題に勝ちたいばっかりで、当時の椛目に御縁を頂いた、次ぎには息子さんの大学受験の事で、本当に大学の受験に合格さえしてくれれば、もうこげん毎日参らんでよか、ところからそしてもうそんな筈ではない。
高校の先生がもう太鼓判を捺すと言われる程しに大体は出来られておる、息子さんがもう来る年も来る年も落ちられる、何遍目かに落ちられた時に親先生がそれこそ、ヒヤヒヤちいわしやったもう本当に手を叩いて、喜ぶ様な事を言われた時にはもうさすが私も腰が立った、もうそのために一生懸命に当時の椛目ですから、吉井から充分三里はありましょう、しかも当時は久大線でしたから草野駅から降りて、草野駅から歩く、もう真暗い朝のお参りですから、本当に様々な困難辛苦もあった、もうそれこそ倒れ転びしながら参っておられた、しかも二年間もお参りし続けておるにもかかわらず見事に合格できなかった。
その時お届けしたら先生がヒヤヒヤといわっしやった、もう私はその時ばっかりは腹の立ったと言う話しを昨日なさっとられました。そして今日おかげを頂いてみて、なる程先生がヒヤヒヤと言われた筈だ手を叩いて喜びたいごたると言われるのは、本当にそうだったと言うのが分からせて頂いて、この方所謂信心は難しいと思ったけれども、難しいものではない、楽しくて有難くてそして現在ひらけておる自分の心の状態と言うものがです、これは側で聞きよっても熊谷さんの信心を知らない者ならば、本当の事じゃろうかと思う様に心が開けて来ると同時に、勿論それにおかげが伴って来ておると言う事実をね、話しておられました。
この事だけを願いの焦点としておる時にはその事が成就しないと、神様がおかげを頂かせきらないとおもったり、ああそれがおかげですよと言われるから、それが腹が立ったりする様に思うけれども、後になっておかげになってくる事が分かればなる程です、御神意が深く広く分からせて頂けば頂く程、もう日々が有難い事ずくめ、なら有難い事ずくめと言う中にはもうやんがた一年になりますかね、吉井の嫁行っておられる娘さんのお医者さん 大きな病院です、その御長男が亡くなられたです、この頃からはその二番目の息子さんこの方も医大に在学中に、この頃からは大阪ですかねやっぱりお医者さんになられるための、学校に行っておられたのが、お母さんがあちらに行かれて、そして単車が欲しいと言うからその単車を買ってやって帰ったばかりに、事故で即死して亡くなられた。
それがまあだ二三日前が告別式だった、そう言う中にです、もうその淡々としてもう有り難うしてこたえんと言う話しをなさいました。
神様の一部一里間違いの無い働きの中に起きておる事を実証して話されました、もう驚きです、けど合楽で本当に信心の稽古をしておるなら、そう言う心の状態になるのが当たり前なんです、ですから信心は有り難うして有り難うしてと言う事は、自分の都合の良い事ばっかりそれこそ骨身に答える様な、それこそ骨身を削る様な中にです、有り難うしてと言うお礼を言うとられます、だからそこんところが余りにも例えば此の頃からも例えば久留米の光橋先生がもうそれこそ息の根が止まる様な怪我がありまして、勿論体が動きませんから四五日位御無礼しましたでしょうか、朝参りが、そのことはもうのっけからもう有り難うして有り難うして、こたえじゃったとこう言うてます、だからこういう風に表現を聞かしてもらった分じゃ、何が何じゃいっちょん分からん、しらごつのごつあるけど、内容を聞くに至ってです、成程有り難うしてこたえんじゃろうと思うし、そう言う様な事を通して信心をもうそれこそ一段と飛躍をして、様子を聞かして貰ってです、信心ちゃ思う様に成功して行く事も有難いけど思いもかけない、難儀が起こる、思いもかけない反対の事になるときに、こんどは有り難うして有り難うしてと二回いわにやおられんごと有り難うなっとる、信心ちゃそれなんです、思うようになった時には有難い、思いかけない災難に会った時にはもう有り難うして有り難うしてになって来ておる訳です。
だから光橋先生の日頃の信心を知っておらねば嘘の様にあるのですけれども、それは難しいところを通らして頂いて、そう言う素晴らしい境地がひらけて来ると言うときになって来るときに、もう信心は容易いものと言う事になって来るのです、容易いと言う事はもう有り難うして有り難うしてもう楽しくて楽しくてと言う事になるのです。
本気で信心を、這えば立つ、立てば歩む、次に歩きながらと言う様にそこんところを目指して貰い、焦点としての信心をさせて頂く。
私は初めて昨日、向こうの御結界にあったのですから、見ておけなかったが先日から合楽示現活動に参画すると言う事に就いて合楽と言う言葉を使うから、いろいろ非難があるからなんとか合楽に変わる事言葉はないものだろうかと、もういつも思い続けておったら、金光大神覚えの中にある、この方が言う信心とは神人と書いて信心と言うのじゃ、と言うところがございます、そのことがねこのパンフレットの中に教義と言うところの中に出ております、金光教の教義は、教祖が信心とは信心のこころカッコしてあります、信の心ではないぞよ、此の方の信心は(神人)と書いてある、この方の信心は神人と書いて神人と語った様に、神と人との働き合いと言うことが中心です。
神と人とが働き合うと言う事は、人間が神、天地金の神の恵みに生かされておると言う道理、わけ合い知りそれを知った人間をして神が神を人間えの愛を実現して行く事を意味します、とこれが金光教の教義だと、まあもう少しありますけれども書き出しにそう言う風に書いてございます、教祖様はこの方の信心は神人と書いて神人と言うのぞよと仰ってあります。
そこでです昨日私が研修会で皆さんのお話を聞かせて頂いて、それ程までの信心がお互い心の中に開かれておる、もう信心の薄着やら分からん者やらは嘘じゃなかろうかと思う様な、心が開けて来ておる、だからそう言う心をもってです愈々信心、言わば合楽のおかげを頂かして貰うときに、金光様の信心が総べてと言えれると思うです、ね、日々が有り難うして有り難うして、それこそ我が心をようもようもここまでお育て頂いたもんだと思う様にです、私は昨日発表された方達はです、言葉に出したらそう言う事になるのじゃないだろうか、熊谷さんが話されました、善導寺の原さんがお話になられました、稲垣さんが話されました、井上さんがなされました、どの方の話しを聞いてもです、よくよく判らせて頂いたら我ながら我が心を拝んでおられる話しばっかりでした。
まあ何日の間にこう言う事をこう言う風に受けられる様になったのだろうかと言うのですから、そう言う心が我ながら我が心を拝むと言う事になるのです、奉っておるのと同じです。
可愛い孫が死んだと言うのにです、もうそれこそ目の前が真っ黒になってもう何をする意欲もなくなったとね普通でなら言うところでしょうけれどもです、ようやくまだ亡くなった時にはあちらの三十日、吉井地区の熊谷さん宅の信心共励会でした、それもやっぱり当たり前の様に何もなかった様にしてしておられます、朝参り夜参りもけっして欠がしておられません、上野先生がその事をお取り次ぎさして頂いた時に、故何々と霊様の名前を書いてのお届けでしたから、もうこれは前に亡くなられた方の御霊様と思ったから、先日孫が亡くなりましたと聞いてお取り次ぎさして頂いた、上野先生がびっくりしましたとお届けしました。
そう言う心の状態はたしかにひらけてくるのです、普通で言うなら悲しいことですけど、その悲しい事を受けている心の状態を思う時にわが心をまつっておるわが心を拝めれると言う様な、風に開けてくるのですからそれは本当の事が本当の事とわかって来るからです、来る年も来る年もそのために日参して毎日毎日参り続けた、それでも尚合格は出来なかった、それを親先生はソヤヒヤと言われた、その時には成程腹が立つほどのこころの状態だったけれどです、段々一年一年と見させて頂く内にです、神様のあられ方なされ方の中にもう只氏子が憎いとかいじめてやろうと言う事で、いなさるのでもなからねば憎いから難儀な事が起こって来るのじゃない、もう只只神愛あるのみだと氏子が可愛ゆうてたまらん、より素晴らしいおかげを、おかげを受けるためにそのすべてであることがわかってくる。ためにどう言うことにそれが有難いと言う事になって来るのです。
久留米の佐多さんの話しを聞かして貰って申した事ですけれども、あんな話しを聞かして貰うとったら信心の出来んものでも出来たごと、有り難うなる事ですねと申した事でした それは佐多さんの日頃の信心を知っておるから、それが実感として人に伝わって行くのです。ね信心は容易いもの、いやそうではない、難しいものしかもその難しいもののです、私共は通りぬけさせて頂くところから、難しいものか゛難しくなくなって来るところまでの、稽古が出来た時に信心は容易いものと言う事になって来る。
それをいつまでたっても信心ちゃ仲仲難しいものです、とても毎朝そげん日参りなんてんそげな費用も随分掛かるしですしのそりゃとても難しいもんですよと言う間は、あなたの信心は堂々まわりだと言う事になるのです。
とても熊谷さんが話しておられました様にある方との対話です、ほんにあんたの話しを聞きよると私どんも参りりたいごとあるばってん、とても暇と金がなからねば出来ませんけんのといわっしゃった、そげな段じゃない、暇もなからねば金も有るわけじゃないけれども、段々おかげを頂いて暇も出来てお金も出来て楽しうして、有り難うお参りが出来る様になることも、その人には分からんと言うのです。
信心の進むに従ってです一切の事情が変わって来る、お金に不自由せん様になって来る、もうすべての点におかげを頂いて来ると言うのですから、その日その日のおかげを頂いて行けば立ち行くところのおかげ、愈々信心を容易いものじゃと言うところまで、容易にと言うだけではない楽しいもの有難いものとわからせて頂くところまで、信心を進めて行くならばです、そこから言うならばこの方の信心は神人と書いて神人と言うのぞと教祖が仰る、金光教の教義にのっとっての信心が身につく様にならなければ、堂々まわりの信心では金光様の信心をしておるだけであって、頂いておる事にはならないと思うです。
信心を一つ頂かして貰わねばいけません、堂々回りの枠からここから脱皮しなければなりません。信心を愈々容易いもの楽しいもの有難いものに、してゆかねばいけません。
どうぞ。